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「新制大学」の終焉~大学はどこへ行こうとしているのか~(2021/01/13)

『教育学術新聞』2021年1月13日

はじめに~占領軍の舞台裏

ポストコロナ時代の日本の大学はどこへ行こうとしているのか。筆者は『新制大学の誕生―戦後私立大学政策の展開』(玉川大学出版部,1996年)を刊行した。これは当時のGHQ/CI&E教育課長マーク・T・オアなど当事者からの聞き取り調査をもとにまとめたものである。その筆者が「新制大学の終焉」を書いているのも奇異なことである。「終焉」との表現は誤解を招く恐れがある。筆者の真意を説明しておきたい。新制大学の「花形」として登場したのが「一般教育」と「単位制度」であったが,それらが「終焉」したという意味においてである。

結論から言えば,「新制大学(一般教育と単位制度)」の終焉は「想定内」であった。なぜなら,当初から「砂上の楼閣」に過ぎなかったからである。なぜ,「花形」とまで「称賛」された戦後大学改革の「目玉」が「失墜」したのか,いくつかの要因が考えられる。その一つは,それらが戦前に存在しなかった新しい制度で,アメリカからの直輸入であったため,どのようなものかわからないまま導入したことに起因した。

もう一つは,日本占領下の「間接統治」がなせる「業」であった。この点は,占領下ドイツの「直接統治」とは異なった。間接統治とは,日本政府を温存して,間接的に統治するもので,占領軍と日本政府の間に「忖度」があった。

占領軍の敗戦直後の学校教育改革構想には「高等教育」は含まれなかった。これは当時の占領軍スタッフの「力量」を見ればわかることで,オアをはじめとするスタッフは,アメリカの大学院レベルに相当する若者で,一国の教育改革を断行するには荷が重すぎた。彼らの関心は「義務教育」にあり,それが最重要任務であった。

「間接統治」や占領軍スタッフの「力量」を考えると,義務教育をどうするかが当面の課題であった。アメリカは地方分権化社会で,日本のように中央集権によって義務教育を全国一律に施行するという経験はなかった。占領軍スタッフが頼れたのは,当時の南原繁を中心とする「日本側教育家委員会」以外になかった。日本側教育家委員会の大半は大学関係者で,「旧制大学」を存続させることしか「眼中」になかった。

日本側教育家委員会からの協力を取り付けるには「忖度」が必要であった。当時,戦争責任から「帝国大学解体論」が巷で噂された。そのように「抜き差しならぬ」状況下で南原繁を中心とする日本側教育家委員会と占領軍との間に「裏取引」が行われた。それは教育改革責任者オアの「証言」からも裏付けられた。日本側教育家委員会は,義務教育を中心に初等・中等教育改革に全面的に協力する「見返り」に高等教育改革に関しては,日本側にまかせるという「お墨付き」を取り付けた。したがって,初等中等は「改革」と呼ぶに値したが,高等教育は「編成」に過ぎなかった。

敗戦直後の日本側の指導力は「失墜」し,国民の誰も耳を貸さなかった。そこで占領軍スタッフが構想したのが,1946年3月米国教育使節団の招聘であった。戦後教育改革のバイブルと称された『米国教育使節団報告書』は日米合作であって,日本側の構想を米国教育使節団が「裏打ち」したものである。当時,占領軍には一国の高等教育改革を遂行するだけの人物はいなかった。そこで急遽,ローマ字改革で名高いロバート・キング・ホールが韓国駐留のアルフレッド・クロフツ (Alfred Crofts)をGHQ/CI&E教育課高等教育班にリクルートして,米国教育使節団と一緒に高等教育改革に従事させたという裏事情があった。以上からも,戦後日本の高等教育改革は当初から問題が山積であったが,「見切り発車」した。

「一般教育」の崩壊

1991年の大学設置基準の大綱化において「一般教育」が解体された。むしろ,「消滅」したという表現が正しいかも知れない。戦前の旧制高等学校の教養教育と新制大学における「一般教育」が混同した。それを増長したのが,「新制大学」のなかで両者を「同居」させたことである。すなわち,別々に存在した高等教育機関を統合して「一般教育」と「専門教育」に分類した。結果は火を見るより明らかで,両者は「融合」するどころか隔離して大学教育を「分断」した。「一般教育」という名称が正しかったかどうか,今になって振り返れば,疑問が残る。「一般教育」は専門教育のために準備教育と考えられたところにも重大な誤りがあった。むしろ,専門教育を「包括」することが期待された。「一般教育」は専門のための準備教育というよりも,リベラルアーツの「汎用的能力」を培うことが求められた。ゼネラル・エデュケーション(General Education)を「一般教育」と翻訳したことが適切であったかどうかも疑問が残る。英語のGeneralには,「一般的な」とは別に,「汎用の」という意味合いもあり,「汎用的教育」の方が当時のアメリカ側の教養教育の考えに合致していたのではないかと考える。ここでも「一般教育」に対して大きな「ボタンのかけ違え」を犯した。これも歴史の「皮肉」と言えるかもしれない。承知のように,新制大学が発足した翌年には朝鮮戦争が勃発し,極東における冷戦構造の枠組みのなかで,その理念が十分に反映されることなく,不徹底さに拍車がかかったことも「一般教育」の形骸化および混迷につながった。そして,占領改革も未完に終わり,新制大学も未完のまま「終焉」した。

「単位制度」の崩壊~新型コロナウイルスの影響を受けて

「単位制」は,日本の大学教育に適応しなかった。これはアメリカ的な自立・自律的学習を促すもので,日本のような集団的学習とは相反するところがある。「単位制度」とは「学習時間」で「算定」され,学生が主体的に獲得するもので,教員が授けるものではない。しかし,日本では成績評価と混同して,未だに「単位をあげる」との呼称が一般的である。「単位制度」が形骸化して機能していないことは一目瞭然である。それは,「教育パラダイム」を中心とする教室内授業にのみ重点が置かれ,「学習パラダイム」を中心とする教室外学習が機能していないからである。その結果,「単位をあげる」という表現につながった。

「単位制度」の形骸化は対面授業においても顕著であった。オンライン授業では「言わずもがな」である。これに関しては,拙稿「単位制を再考する~eラーニングによる学修時間をどう確保するか」『教育学術新聞』(令和2年5月13日)を参照にしてもらいたい。筆者は,新型コロナウイルスの影響で「単位制」が抜本的に見直されることを「歓迎」している。もともと,形骸化していたのであるから,代替案が望まれていた。「一般教育」も「単位制」も戦後70年を経過して「制度疲労」が見られる。ニューノーマル時代の「単位制」のあり方が問われる所以である。

「ポストコロナ時代のハイブリッド型授業~「ハイブリッドカー」から何を学ぶべきか」

日本はハイブリッドカーの世界的先駆者である。ハイブリッド(Hybrid)とは,異種のものを組み合わせることによって生み出されるモノを意味する。ハイブリッドカーの考えからヒントを得て,「対面授業」と「オンライン授業」を組み合わせた授業スタイルのことを短絡的に「ハイブリッド型授業」と呼んでいるが,これは教員の授業スタイルをオンラインに変えたに過ぎない。ハイブリッド型授業は,学生の学習を「誘発」するものでなければならない。そこで,ハイブリッドカーの「アイデア」をハイブリッド型授業に「転用」できないかと考えてみた。

そのことを,下記の図表イラストで簡単に説明する。「ハイブリッドカー」はガソリンエンジンで発電し,その電力を直流に変換して電池に貯蔵,電池から電気を取り出して周波数や電圧を変換してモーターを駆動するというのが一般的な構造である。ここでは,ハイブリッドカーの仕組みを説明することが目的ではない。その仕組みの「アイデア」をハイブリッド型授業に転用できないかを模索することである。とくに,筆者が注目するのは「ジェネレータ(発電機)」である。これはエンジンを起動・停止したり,エンジンの動力で発電を行なったりするところである。「ジェネレータ(Generator)」の語源のGenには,「(新しいものを)生む (Produce)」という意味がある。この「アイデア」をハイブリッド型授業に転用すれば,学生の学習を「生む (Generate)」はたらきにつながる教育的な意味合いがある。「一般教育 (General Education)」の語源も「同根」である。

「学習パラダイム」提唱者ジョン・タグは,「学習を生み出す (Produce Learning)」ことが学習パラダイムの重要な使命であると位置づけている。

「ジェネレータ」のほかにも「インバータ (Inverter)」や「バッテリー(蓄電池)」にも注目したい。これらの「アイデア」をハイブリッド型授業に転用することで,グループディスカッションやプレゼンテーションという違った形に「転化」できる。このようにハイブリッドカーには,ハイブリッド型授業に転用できる「ヒント」が隠されている。これらのアイデアを転用できれば,ハイブリッドカーに匹敵するハイブリッド型授業ができるのではないかと考える。

ハイブリッドカー

おわりに~ファシリテータを育てる教員研修

ハイブリッドカーの「アイデア」をハイブリッド型授業に転用できれば,最先端の技術を授業改善に応用できる。そのような柔軟な視点に立ったファシリテータとしての教員が求められる。ハイブリッド型授業の良さは,授業(教員)と学習(学生)が「好循環」することで,学生の学びを生み出す教育環境を創り出すことにつながる。

ハイブリッド型授業には,「新制大学」で「失墜」した「一般教育」や「単位制度」の補填も可能である。たとえば,前述のように「ジェネレータ (Generator)」は「一般教育 (General Education)」にもつながる考えがあり,ハイブリッド型授業で注目される「反転授業」は,形骸化した単位制の教室外学習時間の確保としてニューノーマルの役割が期待できる。

最後に,ハイブリッド型授業における「ジェネレータ」,「インバータ」,「バッテリー」などの機能が正しく稼働しているか。メンテナンスされているか,チェックしてみると良い。それができてはじめて,世界に誇るハイブリッドカーを有する日本のハイブリッド型授業として発信できる。